文：榊原律子

故郷ザルツブルクを離れて1781年にウィーンに居を構え、フリーランスの音楽家として活動を始めたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト（1756～1791）が、ウィーンで初めて初演したイタリア・オペラ、それが「フィガロの結婚」である。

当時のウィーンはイタリア・オペラが好まれ、上演されていた街だったが、モーツァルトがウィーンに来た頃は、皇帝ヨーゼフ2世の方針で、2つある宮廷劇場のひとつ、ブルク劇場は、イタリア語の作品ではなくドイツ語の演劇と歌芝居（ジングシュピール）を上演する専用劇場となっていた。モーツァルトはウィーンへ行くと宮廷劇場監督オルシーニ＝ローゼンベルク伯爵からさっそく作曲依頼を受け、ドイツ語のジングシュピール「後宮からの逃走」を作曲し、1782年に上演された。

翌1783年になると宮廷は方針を変え、ブルク劇場でも再びイタリア・オペラを上演するようになる。ハプスブルク帝国の都ウィーンでイタリア・オペラを上演して名声（と収入）を得たかったモーツァルトに残念ながらオペラの作曲依頼は来なかったが、以前からオルシーニ＝ローゼンベルク伯爵にイタリア・オペラを作曲するよう勧められていたこともあり、オペラのための台本を自ら探し始める。父レオポルトへ宛てた手紙によれば、100作以上の台本に目を通したものの、気に入ったものが見つからない。途方に暮れていた頃、ようやく見つけたのが、フランスの劇作家ボーマルシェによる戯曲「狂おしい一日、またはフィガロの結婚」だった。使用人が貴族をやり込めるという、貴族階級を批判する内容のため、フランスでは1784年に舞台にかかるまで上演が禁じられ、ウィーンでも1785年、のちに「魔笛」でモーツァルトと仕事をすることになるシカネーダーが上演しようとしたものの宮廷から許可が下りなかったという作品だが、翻訳本の出版は許されていたため戯曲を手にすることはできた。

そんな“危険”な戯曲にモーツァルトが惹かれたのは、アーティストとしての反骨精神かもしれない。それと同時に、「フィガロの結婚」の前編の戯曲「セビリアの理髪師」による作曲家パイジェッロのオペラが1783年にウィーンで大ヒットしており、その続編ならば成功すると見込んだのかもしれない。いずれにしても戯曲をオペラ台本にしてくれる作家が必要で、モーツァルトが声をかけたのがイタリアの詩人ロレンツォ・ダ・ポンテ（1749～1838）だった。1781年終わりにウィーンにやってきたダ・ポンテは、ヨーゼフ2世に気に入られ、ブルク劇場がイタリア・オペラ上演を再開したとき宮廷劇場詩人に任命された。そんなダ・ポンテはモーツァルトの依頼を引き受け、全5幕だった戯曲を全4幕にし、登場人物の数も減らし、そしてなにより、上演許可が下りるよう、しかし作品本来のおもしろさを損なわないようにオペラ台本を書き上げた。モーツァルトは、現在「モーツァルト・ハウス」として博物館になっているシュテファン大聖堂そばの家で、1785年中頃から1786年4月にかけて作曲。そして1786年5月、ブルク劇場で初演した。

初演のシーズン内で「フィガロの結婚」のブルク劇場での上演は9回で終わった。たった9回だから作品は失敗だったのかというとそうではなく、アリアと重唱がアンコールされる（しかも、上演が長引くからとヨーゼフ2世が重唱のアンコールを禁じた）ほどには成功したようだ。爆発的な成功を収めたのはプラハで、「フィガロの結婚」の大ブームが起こった結果、新作オペラを依頼され、「ドン・ジョヴァンニ」がプラハで1787年に初演。ウィーンでは初演から3年後の1789年に再演され、この際に大評判となったおかげで新作オペラを上演する機会を得て「コジ・ファン・トゥッテ」（1790年初演）が生まれた。「フィガロの結婚」はモーツァルトとダ・ポンテのコンビによる第1作であると同時に、この作品があったからこそ後の2作が生まれた、ダ・ポンテ三部作のまさに始まりの作品なのである。

【序曲】

演奏会でもよく演奏される序曲。ユニゾンの転がるようなパッセージで始まり、痛快なドラマの幕開けにふさわしい、はじけるような音楽が展開する。

【第1幕】

結婚祝いに伯爵からもらうベッドが部屋に収まるかどうか、楽しそうにサイズを計るフィガロが表情を一変させる「伯爵様、踊りをなさりたければ」。伯爵の企みを知ったフィガロが怒って歌う、最初の聴きどころ。
前作「セビリアの理髪師」でフィガロに痛い目に遭ったバルトロの「復讐、ああ、復讐は」は、フィガロへの復讐を誓う威厳ある曲でありながら早口言葉も楽しい曲。
ケルビーノの「自分で自分が分からない」は、女性なら誰にでも恋してしまう胸のときめき、高揚感を描いた絶品のアリア。
スザンナ、伯爵、バジリオが鉢合わせする三重唱「なんだと！」は、3人の思いと慌てぶりがうるわしい響きと色彩感をもって歌われる。
フィガロの歌う有名な「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」は、伯爵の命令で入隊することになったケルビーノをからかう歌で、最後はトランペットも鳴り、軍隊行進曲風になる。

【第2幕】

第2幕の始まりは、伯爵夫人の「愛の神様」。夫の愛を返してほしい、さもなければ死なせて、という祈りが気品に満ちて歌われる。
ケルビーノの「恋とはどんなものなのか」は、初めて経験する恋への戸惑いを歌う、有名な1曲。胸のときめきを表すような弦楽器のピツィカートがみずみずしい。
スザンナを呼ぶ伯爵、それを止める伯爵夫人、隠れるスザンナによる三重唱「スザンナ、出ておいで」、スザンナと共に隠れるケルビーノとの軽快な二重唱「早く開けて」、伯爵の「もう出てこい、不埒な小僧」から始まるフィナーレ、とハラハラドキドキのドラマが展開する第2幕後半の重唱は、アンサンブルの妙や音楽の変化が楽しい大きな聴きどころ。

【第3幕】

伯爵とスザンナの二重唱「ひどいぞ！」は、伯爵がスザンナを誘い、スザンナはそれに応えるふりをする、甘くスリリングなやりとりが聴きどころ。伯爵の「訴訟に勝っただと！～私がため息をついているというのに」は、伯爵の怒りが爆発するアリアで、喜劇的ながらもドラマティックな音楽で聴かせる。
マルチェリーナとバルトロがフィガロの両親だったことが判明して歌う「母を認めておくれ」は、フィガロ、マルチェリーナ、バルトロ、スザンナ、伯爵、ドン・クルツィオそれぞれの心の内を絶妙に描きながら見事なハーモニーを響かせる絶品の六重唱。
スザンナを待っている伯爵夫人が歌う「甘く喜びの美しい時は」は、伯爵との愛の喜びを失ったことを切々と歌い上げたのち、愛を取り戻そうと希望に満ちて輝かしく歌う名曲だ。スザンナと伯爵夫人による「そよ風に寄せる」は、伯爵へ渡すニセの逢い引きへの誘いの手紙を書きながら、その文面を歌う甘美な二重唱。

【第4幕】

幕開けの歌は、バルバリーナの「失くしてしまった」。スザンナに渡すよう伯爵から預かったピンをなくしてしまったと歌う、悲劇的な歌。
息子フィガロの状況を知って歌うマルチェリーナの「牡山羊と牝山羊は」、バジリオの「若い頃には」は、どちらも年長者の悟りを歌うもので、これらの役一番の聴きどころ。
スザンナに裏切られたと勘違いしているフィガロの「すっかり用意ができた～目を見開いて」は怒りに燃える歌だが、モーツァルトの音楽は陽気で、早口言葉風のパッセージも楽しい。
スザンナがウソの逢い引きを待つ歌「早くおいで、美しい喜びよ」は、弦楽器のピツィカートのリズムにのって繰り広げられる木管楽器の掛け合いも美しい。
スザンナと伯爵夫人の計画は成功し、伯爵は許しを乞い、「これで誰もが幸せになれる」と崇高な音楽で歌われたのち、最後は華やかに幕を閉じる。
そして、全4幕を通してなによりの聴きどころは、ノット&東響の音楽と、レチタティーヴォの際に奏でるノット監督のハンマーフリューゲル。どのようにドラマをリードしていくかご注目を！

取材・文：松本學

（→前編 Vol.6から続く）

――今回はピリオド的な要素はどうされるのですか？ ノットさんがピリオド演奏を強く意識したのは、バンベルク時代にアントン・シュテックとかジョヴァンニ・アントニーニのワークショップを経験されたからですよね？

とてもよいご指摘です。バンベルク響の首席指揮者になって9年目くらいの頃だったと思います。ちょっと大きな取り組みになることだったので、時機を待ったのです。 当時バンベルク響とは年間に50公演ほど公演を持っていました。22の異なるプログラムをやらねばならず、多くの作品を演奏していました。それだけやっていたので、《コジ》をやるにあたり、バロック弓を使いたい、そういう挑戦が必要だと皆に言ったんですよ。 東響では年に8プログラムですし、常に2公演やるわけでもありません。もし私が東響で年に50公演やっていたとしたら、多分同じことを提案するでしょう。このチャレンジは明らかに素晴らしいことなのです。ただ、日本の方々は失敗をしたくないという意識が強いところがありますから難しくもあります。また、了承を得るのに時間もかかるので、今回の《フィガロ》にはちょっと時期尚早かとも思っています。でも、2、3年以内にはやりたいですね。コンサートマスターの水谷さんはすでにバロック弓を自主的に使っていましたし、チェロの2、3のメンバーにももう一度話してみます。

――管楽器と打楽器はいかがですか？

木管楽器のサウンドはピリオドとモダンではまったく異なっています。ですので、肉と魚を安易に一緒くたにするような危険性もあります。とはいえ、トランペットとティンパニはナチュラルを用います。木製フルートも問題ありません。バロック・ファゴットはちょっと微妙かな。ガット弦は大好きなのですが、ピッチが442Hzか443Hz、特に443Hzでやるのは難しいですね。気を付けなければいけないのは、モーツァルトが使っていたのと同じ楽器を用いようと、それでもつまらない演奏は起こり得るということです。 現代は、素晴らしく完璧で、美しく、洗練された演奏であるべしという傾向があります。しかし、これはそこで音楽が停まってしまうこともあるので注意しなければなりません。音楽にはどこか我々を掴んで、投げつけてくれるようなところがないといけないと、私は闘っているんです。完璧さばかりでなく、もうちょっと汚いところがあってよい、時にお客さんをちょっと苦しめたりしながら（笑）、より深いところを追究しなくてはね。


――このモーツァルト・トリロジーは演奏の充実だけでなく、演技も巧みに付けられており、初回から立派なオペラ上演だと思っています。

演奏会形式に加える程度の演出ではありますし、このインタヴューの時点では未知数ではありますが、12月の本番をどうぞ楽しみにしていてください。

（インタビュー完）

文：松本學

インタヴューでもおわかりのように、彼もHIP（Historically informed performance＝歴史的情報に基づいた演奏）に関心を持つ指揮者である。ことにピリオド楽器によるカラー・パレットの拡大は彼のイマジネーションをかき立てるようだ。ここでは、彼がいつ頃からHIPに強く関心を示すようになったのかについて触れておこう。むろんあれだけの音楽アンテナの強さ故、アーノンクール、ノリントン、ガーディナーらの発信は人一倍血肉となっていただろうし、彼にとってターニング・ポイントは何回かあったようだが、その中でも大きな転機といえるのはやはりバンベルク時代のようである。きっかけとなったのは、オーケストラ・メンバーからもたらされた刺激――というのは以下のような次第である。

ノットがバンベルク響にバロック弓を用いるように提案するよりも前、2008年頃から、すでにバンベルク響内では興味のある有志たちがバロック・アンサンブルを組んでおり、オーケストラとは関係なく演奏会を開いていた。さらに彼らは技術の向上を目指し、2009年2月には自主的にワークショップを企画。講師としてバロックの専門家を自費で招いて、勉強を重ねていた。

彼らは翌2010年3月には、ラインハルト・ゲーベル門下でミンコフスキのルーヴル宮音楽隊のコンマスも務めていたアントン・シュテックの指揮でバロック・アンサンブルの演奏会を開催。その頃に、「せっかくだからオーケストラでもバロック弓を使って演奏してみたら」という話を団員とノットが交わし、実際にオーケストラでも取り組んでみることになった。ただし、当時のコンマスを含む年配の団員など、まったく経験がなかったり、そもそも興味のない人たちもいるので、まずは試しということで、個人でなくオーケストラがバロック弓を借りる手配などし、所有していないメンバーはその中から選んで使ってみる、というところからスタート。その時点でもバロック弓がまだ無理だった方たち（含コンマス）はクラシカル弓で対処したそうだ。
その後、2010年11月にバンベルク響としてゲーベルを迎えワークショップも開催している。

2012年3月には再びオケのメンバーが独自の判断で、ジョヴァンニ・アントニーニを講師に迎えてオーケストラのワークショップを開催。その成果発表として彼の指揮でヘンデル、サンマルティーニ、ジェミニアーニ、ハイドンを並べたコンサートも行われた（コンマスには前回の講師アントン・シュテックを据え、バロック弓を使用）。
ノットはこのワークショップ（弦楽器、木管楽器の講習）をすべて聴講し、メンバーと共に勉強。当時を知るメンバーによれば、彼は弦楽器陣がバロック弓を用いることと併せ、木管にピリオド楽器を用いることに大変興味を持ったようだとのことである。
そして、その研究が後の2012年の7月のノットとバンベルク響による《コジ・ファン・トゥッテ》に結実する。ここではバロック弓とガット弦を用い、また、ノットは通奏低音を担当し、歌うモダン楽器から語るピリオド楽器の魅力を見事に披露、素晴らしい結果を残した。

2013年10月にはバンベルク響でハイドンの交響曲第82番、83番、バルトークの《舞踊組曲》というプログラムを組み、ハイドンでバロック弓を使用。これがおそらくバンベルクでの最後である。その後ノットに再びこの方法を試みようという気にさせたのが東響というわけだ。ダ・ポンテ歌劇三部作初回の《コジ》で、作品自体の要求に加え、コンマスの水谷が自主的にバロック弓を使用したことも刺激となったに違いない。

なお、ノットはつい最近では、ブリュッヘンの後継を模索する18世紀オーケストラに招かれ、2018年3月にブラームスを演奏。好評を持って迎えられている。本人も上記インタヴューの際に、「実にも面白い体験だった」と語っていた。

取材・文：松本學

今年がちょうどデビュー30周年となるジョナサン・ノット。東京交響楽団とのパートナーシップも、就任時の蜜月状態のホットさそのままに早くも5年目の半ばを過ぎた。ミューザ川崎を舞台に3年にわたって上演してきたモーツァルト・トリロジーも、いよいよ完結編となる《フィガロの結婚》が目前に迫る。

――まず最初に、ノットさんの《フィガロ》との関わりをお聞かせください。バンベルク時代には序曲のほか、2005年にダムラウとスザンナのアリアを1曲だけ採り上げていたのは覚えているのですが、《フィガロ》全曲は演奏されていませんよね。

ダ・ポンテの3作品の中でも最も多く指揮しています。それだけでなく、私は最初は歌を学んでいて、マンチェスター時代には抜粋ながらバジリオを歌ったりもしていたんですよ。その後、オペラ・スタジオで大きなシーンを2、3つ勉強しました。コリン・デイヴィスが来て、マスタークラスを開いてくれたのを覚えています。 それから、オーディションを受け歌劇場のコレペティトゥアとなったので、歌手と一緒に歌い、彼らにキューも出さなければならなかったため、スコアを学ぶ必要に迫られました。結果的に全パートの歌詞を覚えてしまったくらいでしたね。

――東響＆ミューザとのトリロジーは、《コジ》、《ドン・ジョヴァンニ》、そして《フィガロ》と、作品の出来上がった順をさかのぼるように進められてきました。

そう、逆の順番でやったのですが、《フィガロ》が一番経験があったわけです。《コジ》は数回指揮したことがありましたが、《ドン・ジョヴァンニ》は実は全曲をやるのは初めてでした。

――ノットさんとモーツァルト・オペラというと、古くはフランクフルト時代に《偽りの女庭師》K196をやられていましたね。

フランクフルト歌劇場には最初はコレペティトゥアとして入りました。私としては1年間だけにしたかったのですが、2年契約制度しかなかったのでそのようにしました。1年経って当時の監督のベルティーニに話をして、指揮させてもらえるようになったんです。結局4年間いて、何曲かオペラを指揮しました。《偽りの女庭師》は2年目ですね。

幸いにオペラを広く手がけられたのは第1カペルマイスターとして赴任したヴィースバーデン時代です。自分にとっては大きなステップでした。《オテロ》も《ドン・カルロス》も《椿姫》、《ボエーム》、《蝶々夫人》も、そして《フィガロ》も、30曲近い作品を96公演ほどもやったんですよ。ワーグナーの《指環》を初めて指揮したのもヴィースバーデンでしたね。ただ、ここはいわゆるドイツの定番レパートリーの劇場なので、新演出の場合はもちろん別ですが、日常のレパートリー公演の時はリハーサルはやらせてもらえず、とにかく本番という……（笑）

――バンベルク響、そして東京交響楽団＆ミューザ川崎とオペラ・プロジェクトをやろうとした理由は？

シンフォニー・オーケストラのためオペラ演奏の経験がないからです。東響はともかくバンベルク響はオペラを上演したことがなかったので、体験するべきだと考えたのです。16年間で10作品ほどやりました（註：参照）。バンベルクで《コジ》をやった時、私が若い学生の頃にオペラ・スタジオで会ったことのあるトーマス・アレンに来てもらったのですが、それが本当に素晴らしい体験だったので、東響ともまたこの作品の素晴らしさを共有したいと思ったのです。さらに、川崎はザルツブルクの姉妹都市なんですよね。それを知った瞬間に、もうこれはやるべきだと思いました。

筆者註）
《コジ・ファン・トゥッテ》は2012年7月にバンベルクで3公演上演されている。
なお、ノットがバンベルクで採り上げたオペラは9作品。
2000年 トリスタン（各幕を順に）
2001年 ジークフリート（各幕＋全幕）
2001年 ボエーム第3幕
2002年 フィデリオ
2004年 ヴァルキューレ
2005年 トリスタン（エジンバラ音楽祭）
2007年 ラインの黄金
2012年 コジ・ファン・トゥッテ
2013年 神々の黄昏（バンベルク各幕）
2013年 《指環》（ルツェルン音楽祭）
2015年 ファルスタッフ（バンベルク＆ルツェルン音楽祭）

それぞれの役柄に共有できる優しさがある

――《フィガロの結婚》における真の主役は誰だと思われますか？

それを考えせるのもこのオペラの面白さや、作者たちの賢さを感じさせますね。それぞれの役柄に一緒に共有できる優しさがある。主役はもしかしたら伯爵夫人かも知れません。次第に愛が無くなってゆくことや、年齢を重ねてゆくという共通点から、《バラの騎士》のマルシャリンのようでもあります。《フィガロ》ではちょっと愚かな旦那を持って、この先私の人生はどうなってゆくのかといった感じ（笑）。愛を再び取り戻し、維持しながら過ごしてゆくというこのアイディアは他の登場人物にはないものですよね。 一方、伯爵はというと、彼は貴族です。生まれつき皆から崇められるような身分ではありますが、彼は本作では、新しい仕組みのために古い習慣を諦めなければならない－－－つまり古い社会と新しい社会の中で引き裂かれていることが象徴されているわけです。これはとても政治的な話です。と同時に《セビーリャの理髪師》では貴族社会の代表者としてとてもよいように描かれていたのに、《フィガロ》では伯爵は一番愚かで、威厳はあまり感じず、道化師のようにすら見える（笑）。ただし、とことん馬鹿にもされてはいない。ロッシーニとモーツァルトでは声域も異なって描かれています。

――2幕の終わりで、それまで“Contessa”と呼んでいたのが、そこで“ロジーナ”と名前で呼んでいます。ああいう人間らしさが出ているところは魅力を感じもしますね。

確かに。

――スザンナこそ中心なのではと思えませんか？ 彼女だけがアンサンブル曲のすべてに参加しています。

そう。彼女がほぼすべてのことをコントロールしている存在です。また、彼女が労働者階級と貴族社会の間におけるリンク、結び目の役も担っています。実に賢く、巧みに立ち回る。そう、主役はフィガロでもないし伯爵でもありません。それにしても、モーツァルトっていつもこうなんですよね、きわめて女性の描写がうまく、そして彼女たちが活き活きとしている。《ドン・ジョヴァンニ》だって本当に面白いのは女性のキャラクターかも。

――オーケストラ伴奏のレチタティーヴォ・アッコンパニャート（編注：伴奏付レチタティーヴォ）は《フィガロ》以前では、権力者、すなわち王とか神、あるいは貴族に用いられていたものでしたが、《フィガロ》ではスザンナに与えられていますね。

そう。その上でとてもうまくできていますよね。オーケストラが言葉のリズムに合わせて、キャラクターの情感の変化を表しています。言葉と音楽がとても近しい、密に触れ合っている感じがします。レチタティーヴォとアンサンブルがひとつに融合するような、まるでワーグナーのようなところにすら近くなる。音楽が機知に富み、才気煥発で、知力の動きもとても速い。

――そういえば、《フィガロ》にはウィーン再演時の差し替えアリアなど異稿がありますが……。

それに関しては私はあまり聴きたいとは思いませんね。ちょっとトゥー・マッチでしょう。

→後編（コラムVol.7、11/26公開予定）へ続く

（清岡央）

　澄み切った美声を持つドイツのソプラノ、リディア・トイシャーが、12月に東京交響楽団と共演し、モーツァルト「フィガロの結婚」（演奏会形式）でヒロインのスザンナ役を歌う。「音楽のしもべになれば全てうまくいく」と意気込む。

　高音はどこまでも清澄に、低音は苦悩をたたえて深く響く。10月26日、東京・赤坂のサントリーホール。読売日本交響楽団とメンデルスゾーンの詩篇第42番「鹿が谷の水を慕うように」で共演した。

　枯れた谷で水を探す鹿の姿に例えられているのは、神の恵みを求めてさまよう心。「わたしはいつ神の御顔を見にいくのでしょう」と歌うアリアが切ない。「この曲は歌詞が重要。自分がとうしてこんなに不幸なのか、答えは神様からは得られません。でも、どんなに状況が悪くても信じることが大切と訴えます」

　

12月に歌う「フィガロの結婚」は一転、名作喜劇だ。ここでも、歌詞の重要性を強調する。「モーツァルトの作品は、歌詞が100％音楽の中に入り込んでいるので、作曲家が書いた音楽をまじめにやることが大事」と強調する。

　伯爵の従者フィガロと小間使いスザンナが、伯爵のよこしまな行いに、機転で立ち向かう物語。約3時間に及ぶオペラで、スザンナな出ずっぱりだ。アリア、二重唱、三重唱などの見せ場が目白押しの中、最高の見せ場は、最後にやってくる。第4幕のアリアだ。「『お芝居はもう終わり。あなたを心から思っている』と完璧な解決を歌うアリアは、それまで2時間半も歌った後の上、高音から低音まであってとてもデリケート。でも、いつも楽しんで歌うことにしています」

スザンナは、独ドレスデン国立歌劇場や英グラインドボーン音楽祭などで数え切れないほど歌った。役柄を「誠実で心が温かく、とても賢い。本当に怒ることも、人の失敗を喜ぶこともなく、彼女の魅力で困難を乗り越えていく女性」と表現し、「理想の女性像と言えるかも」と付け加える。

　舞台形式なら芝居も忙しい役だが、今回はオーケストラが舞台に上がり、振り付けは控えた演奏会形式。歌に集中できそうだ。「最近は、見た目ばかり大事にして、音楽が二の次になる悪い演出もある。私にとって音楽が一番重要。そうでなければ俳優が演じてもいいわけだから」。作曲家への忠誠は、舞台形式でも演奏会形式でも変わらない。「モーツァルトは楽譜にすべてを書いています。音楽と歌詞に忠実に、しもべになれば、演技も含めてすべてうまくいくようになっているのです」

　指揮はジョナサン・ノット。12月7日午後6時半、川崎市のミューザ川崎シンフォニーホール（☎044・520・0200）、12月9日午後1時、東京・赤坂のサントリーホール（☎044・520・1511）。

文：榊原律子

ジョナサン・ノット音楽監督＆東京交響楽団によるダ・ポンテ三部作シリーズ第1弾として2016年に上演した「コジ・ファン・トゥッテ」でグリエルモを歌い、絶賛を博したマルクス・ヴェルバが「フィガロの結婚」にフィガロ役で登場します。
ドイツ・リートの名ピアニスト、エリック・ヴェルバを大叔父に持つ彼は、繊細な表現を得意とし、特にモーツァルトのオペラで名高い世界的なバリトン歌手。
そんな彼に、2016年公演の印象、そして「フィガロの結婚」についてうかがいました。

オーケストラ、ホール、聴衆
すべて素晴らしかったです！

――2016年の「コジ・ファン・トゥッテ」は、歌手のみなさんのアンサンブルが本当に美しく、また、お芝居も楽しくて、素晴らしい公演でした。ヴェルバさんはいかがでしたか？

聴衆のみなさんと同じように、私自身もとても楽しかったです。時々このような演奏会形式でモーツァルトのオペラを歌うことがありますが、私は大好きなんですよ。というのは、舞台セットや衣裳がなく、大げさな演技も必要ないので、歌うことに全神経を集中できるからです。とはいえ、共演者たちとよい関係を築くことも大事です。演奏会形式のオペラでは、ほんのわずかな動作をすることで場面が面白くなるので、それができるよう共演者同士で良い緊張感を持ち続けることが重要なのです。

――マエストロ・ノットと東京交響楽団との共演はいかがでしたか？

素晴らしかったです！ アジアの音楽家と西洋の音楽がひとつになることは、本当に素敵だといつも感じています。ウィーンやベルリンなどヨーロッパの歌劇場のオーケストラが演奏するモーツァルトのオペラと比べても、キャラクターや解釈、ユーモアの表現において違いを感じることはほとんどないですね。

――ミューザ川崎シンフォニーホールの響き、空間、観客はいかがでしたでしょうか。

すべて最高でした。ホールとバックステージ、どちらも美しく快適でしたし、音響も素晴らしい。そして、観客のみなさんは、期待を抱いて公演に来て、曲のすみずみまで楽しんでくださっていました。とても感謝しています。

フィガロはさまざまな感情をあわせ持つ
とても人間くさいキャラクター

――今回は「フィガロの結婚」にフィガロ役で出演いただきます。モーツァルトのオペラを得意とされているヴェルバさんからみて、フィガロ役の魅力は何でしょう。

モーツァルトはバリトンのために素晴らしいアリアを作曲していて、そのいくつかはフィガロ役のために書かれたものです。とても広い音域が要求され、言ってみれば、ひとつの役の中でバス、バリトン、テノールの全てをこなさなければならないようなものです。フィガロ役の魅力はなにより、そんな驚異的な音楽ですが、それ以外では、怒り、ユーモア、嫉妬、神経質、ロマンティック、思慮深さといったさまざまな面をあわせ持つ、フィガロ自身の多様なキャラクターです。

――ヴェルバさんは、フィガロ役だけでなくアルマヴィーヴァ伯爵役もレパートリーになさっていますね。

さまざまなプロダクションで伯爵役を演じたあとフィガロ役に戻ってくるたび、「フィガロの結婚」という作品について全く新しい視点を得ていることに気づきます。また、両役を演じることで、共演の歌手が何を得意としているか、どんな部分が苦手なのかを、より深く理解できるようにもなりました。そのことは、自分にかなりの安心感をもたらしてくれるという利点もあります。

――フィガロのアリアといえば、まずは「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」です。ここではフィガロのどんな面を表現なさいますか？

この場面でフィガロは、弱い立場にある人、つまりケルビーノに対して優位に立っています。フィガロは伯爵の使用人ですから、さまざまなフラストレーションを抱えているのですが、ここではそんなストレスから解放されているのです。ですので私は文字通り楽しんで歌います。

――そして第4幕、スザンナに裏切られたと勘違いしたフィガロが歌う「目を見開いて」も大きな聴きどころです。怒りの感情を歌いつつも、喜劇的でユーモアがある歌で、歌手によって表現の違いがあるかと思いますが、ヴェルバさんはどのように解釈されますか？　また、早口言葉は聴いていてとても楽しいですが、歌うコツはあるのでしょうか。

ここは、怒りとユーモアのどちらを表現するか、ではなく、2つの感情の間でよりよいバランスを見つけて歌うべきだと思っています。フィガロの心理状態は深くて複雑ですから、両方を表現しないと、表面的で単純になってしまいますので。フィガロは、皮肉、自暴自棄、不信、怒り、復讐、恥……こういった感情すべてを同時に抱いている、とても人間くさいキャラクターなんですよ。 早口言葉については、単語を一語一語とてもゆっくり歌うところから練習を始めて、最終的には機械のように速く歌えるようスピードを上げていきます。言葉の意味はあまり考えず、単語を舌の上で転がすような感じですね。

――最後に、「フィガロの結婚」を心待ちにしているお客様へひとことお願いします。

これからもずっとモーツァルトを聴き続けてください！ 12月にお目にかかりましょう！

文：榊原律子 (友の会会報誌「Spiral vol.58」より転載)

モーツァルトが台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテと組んで生み出した傑作オペラ3作を、ジョナサン・ノット音楽監督＆東京交響楽団が演奏会形式で上演する大好評のシリーズ。
いよいよ完結となる第3弾は「フィガロの結婚」です。
アルマヴィーヴァ伯爵夫人役を歌うミア・パーションは、世界の名門歌劇場で活躍中の名ソプラノ。今回の「フィガロの結婚」への思いをうかがいました。

愛と尊厳のために戦う
伯爵夫人は強い！

――パーションさんは「フィガロの結婚」スザンナ役でオペラ・デビューをなさったそうですね。そして今回はアルマヴィーヴァ伯爵夫人役でのご出演です。パーションさんにとって「フィガロの結婚」はどのような作品でしょうか。

「フィガロの結婚」はこれまでも、そして今も、私にとって最も重要なオペラのひとつであり続けています。私はスザンナ役でデビューし、その後たくさんの素晴らしいプロダクションでこの役を演じました。現在は声質が伯爵夫人役にシフトしていますので、これから伯爵夫人役をさらに深めていくことがとても楽しみですし、たくさんの刺激的なプロダクションで演じられたらと願っています。「フィガロの結婚」は私の歌手生活における永遠の伴侶です！

――スザンナと伯爵夫人、両役を歌うと、作品をより深く感じられるのではないでしょうか

そうですね。1役だけでなく2つの役を通して物語全体を旅できるというのは、本当に魅力的なことです。モーツァルトは人の心理を理解し、描写する名手でした。それが存分に反映されているのが彼のオペラなのです。

――伯爵夫人は、「フィガロの結婚」の前段にあたる「セビリアの理髪師」では伯爵に熱烈にアプローチされて結婚しますが、今では夫は若いスザンナに夢中。そんな伯爵夫人の気持ちは“愛の神よ”や“楽しい思い出はどこへ”など美しいアリアで歌い上げられますが、どのような表現を心がけていますか。

伯爵夫人はとても素晴らしいキャラクターなので、演じるのが本当に大好きです。心がけているのは、彼女を被害者にしないように、ということ。伯爵夫人は、夫が他の多くの女性と浮気していることを知っていますし、彼女の痛みや悲しみは現実のものです。しかしながら、スザンナと互いの服を交換するアイデアを思いついたのは伯爵夫人ですし、スザンナに伯爵への手紙を書かせて逢引を仕向けたのも伯爵夫人です。つまり、彼女は強く、愛と尊厳のために戦う意志のある人なのです！

演奏会形式では
今この瞬間のことを体験いただける

―― 12月は演奏会形式での上演となりますが、これまでの公演では歌手自身による演技も大変好評でした。「フィガロの結婚」でも、パーションさんをはじめ歌手のみなさんそれぞれが作り上げるキャラクターがとても楽しみです。

いわゆる通常の舞台上演よりも、動きのある演奏会形式で上演する方がいいな、と思うことが実はよくあるんですよ。そうすれば、私たち歌手はステージ上でお互い自由にやりとりができますからね。より新鮮な「今この瞬間」に起きることを、観客の皆様に体験していただけるのではと思います。

――パーションさんの出演を心待ちにしているお客様へメッセージをお願いします。

私も皆さんと同じようにとてもワクワクしています！ ジョナサン・ノット氏とも初共演となります。私は日本の聴衆の皆さんが大好きなので、日本で再び歌うことを心から楽しみにしていますし、しかも私の大好きなオペラの大好きな役を歌えるのでとても嬉しいです。そして言うまでもなく、素晴らしい和食も楽しみです！（笑）