R.シュトラウス「エレクトラ」特設サイト

天が二物も三物もあたえたクリスティーン・ガーキーによる究極のエレクトラ

2023.4.17
クリスティーン・ガーキー © Arielle Doneson

香原斗志(音楽評論家)

微妙で複雑な心模様を力強く描ける

いきなり個人の思いを吐露して恐縮だが、昨年、私にとってもっとも残念だったできごとのひとつは、METオーケストラ来日公演が、新型コロナウイルス感染症の影響で中止になったことだった。楽しみにしていたのはオーケストラを聴くことよりもむしろ、ソプラノのクリスティーン・ガーキーの声を浴びることだった。

現在、英国ロイヤル・オペラ・ハウス、パリ・オペラ座をはじめ、世界の名立たる歌劇場への出演予定がぎっしり詰まっているガーキーだが、事実上の本拠地はニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)である。ここ数年は、METで上演されたばかりの名演を映画館で鑑賞できるMETライブビューイングを通じて、彼女の傑出した歌唱が世界に届けられ、日本のファンも大いに唸らせてきた。

たとえば、2018/19シーズンに上演されたワーグナー《ワルキューレ》で披露したブリュンヒルデ。かなりの長丁場をドラマティックに歌い上げ、なおかつ感情の大きな変化や成長を感じさせる必要があるこの役は、たんに劇的な声が備わっているだけでは十分な表現にならない。だから、私はいつも、過度な期待をもたずに聴くように心がけているが、ガーキーのブリュンヒルデは期待を一回りも二回りも超える名唱だった。

それを抜粋とはいえ東京で聴ける――と思って気持ちを高ぶらせていたから、公演中止が残念でならなかったのである。

ブリュンヒルデ役で圧倒的な歌唱を聴かせたガーキー、鋼の鎧に身を包んだビジュアルも印象的。ルパージュ新演出の壮大な舞台装置も大きな話題に。
METライブビューイング2018-19  《ワルキューレ》©Richard Termine/Metropolitan Opera

なによりガーキーの声は美しく艶がある。そして、どの音域でも同じ声質の艶やかな美声が維持される。じつは、この「同じ声質」であることがキモなのだ。

声質そのものを変化させれば感情の変化を描写しやすい。だが、喜、怒、哀、楽、という雑駁なくくりで感情を表して事足りるならともかく、声質が変化してしまうと、そこに心の微妙な機微まで乗せるのは難しい。だから、すぐれたソプラノはどんな音域でも、どんなに音に強弱をつけても声質は変えず、そこに加える色彩やニュアンスをとおして微妙で複雑な心模様を描く。

そのように歌えるソプラノは、決して多くはない。出会えたとしても、もっとリリックな声の歌い手である場合が多い。ところが、ガーキーは声に強い音圧をかけ、ドラマティックに押し出しながら、声質を変えずにニュアンスを無限に変化させる。そのうえ美しく艶があるとは、天か彼女に二物どころか、いったいいくつの美点を授けたことか。

キャリア初期に盤石の土台を築いたから

それは同ライブビューイング2019/20シーズンで披露された、プッチーニ《トゥーランドット》のタイトルロールでも同様だった。ドラマティック・ソプラノの極北というべきこの役を歌って、どこにも破綻がないどころか、ディテールまで徹底的に磨かれている。地の底から湧き上がるような圧倒的な声は、低音から高いC(ド)の音まで余裕のある均質な響きが維持され、そのうえ女性の色気やかわいらしさまで表現される。

この役はただ力強く歌われるだけの場合も多いが、こうして表現されると、カラフという男がこの女性に惹かれたのも仕方ない、という気にさせられる。

1969年にニューヨークで生まれたガーキーは、はじめはクラリネットを学んだが、途中から声楽への興味が生じ、1994年から97年までメトロポリタン歌劇場のヤング・アーティスト・プログラムのメンバーとして活動。キャリアの初期には、たとえば1997/98シーズンのMETではモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》のドンナ・エルヴィーラを歌い、しばらくはヘンデルなどのバロック・オペラまで歌いこなしていた。

声が成熟を重ね、現在のようなドラマティックな役柄をレパートリーの中心に据えたのは、ここ10年あまりのことだろうか。しかし、モーツァルトをとおして声をやわらかく運んで多彩なニュアンスを加える術を、バロック・オペラを通じて、さまざまな装飾歌唱をはじめ声を多様に動かすテクニックを学び、自分のものにしていた。

だから強い声を手にしたのちも、かつて修得した盤石のテクニックを土台にして、ドラマティックかつ美しく繊細な歌を届けることができるのである。

そんなソプラノがいよいよ、日本でオペラに出演してくれる。それもリヒャルト・シュトラウス《エレクトラ》のタイトルロールを歌ってくれるのである。

強い声で描かれる異次元の心理劇

ガーキーは今回、METでワーグナー《ローエングリン》に悪女のオルトルート役で出演したのちに来日する。この《ローエングリン》も4月中にMETライブビューイングで上映されるから、ガーキーのすごさを知る予習にいいだろう。

メトロポリタン歌劇場にて2023年3月18日に上演されたワーグナー《ローエングリン》。METライブビューイングにて4月21日(金)〜27日(木)で上映。
《ローエングリン》(2022-23)©Marty Sohl/Metropolitan Opera

そして、いよいよ《エレクトラ》である。ガーキーは昨年もこの役を、10月から11月にワシントン・オペラで、5月から6月にはパリ・オペラ座で歌っており、当たり役中の当たり役と評価されている。

この役をガーキーが歌って絶賛される理由は、ここまで記してきたことからわかると思う。《エレクトラ》というオペラは、それなりの数の登場人物がいるとはいえ、基本的にはエレクトラという女性の心理とその変化を描いた、いわば心理劇の色彩が濃い。

それも並大抵の心理状況ではない。父を失った悲しみにはじまり、それが殺害を企て実行した実の母とその愛人への復讐心に変わり、自身の怒りと憎しみに徹底して執着する。そうかといって、ただ強いだけの女性ではなく、心に傷を抱えたまま、怖れをいだきつつ、目的を遂行するために邁進する。

このように激しく、強いのに弱く、入り組んだ感情をいだいている人物を声で表現するのは至難だが、ガーキーにはできる。湧き上がる声に強い音圧をかけ、一定の声質を保ちながら、心の移り変わりに応じてニュアンスを加える。しかも、無限の表情をたたえた音楽的にも完成された声が、分厚いオーケストラを突き抜けて、心の激しさそのもののように聴き手の耳に届く。

そんな異次元の体験に心を揺り動かされる日が、もうそこまで迫っている。

ワシントン・ナショナル・オペラでの《エレクトラ》(2022年10-11月)。
圧倒的な存在感を放ち、ワシントン・ポスト紙でも“独壇場”と絶賛された。

Elektra トップへ戻る