R.シュトラウス「エレクトラ」特設サイト

Interview:ジョナサン・ノット
「《エレクトラ》はドラマが持つ残酷さを限界まで拡げた」作品

2023.2.22
ジョナサン・ノット 第1弾《サロメ》公演から(2022年11月18日) © N.IKEGAMI

絶賛のうちに幕を閉じたジョナサン・ノット×東京交響楽団(以下、東響)のR.シュトラウス・オペラ・シリーズ第1弾《サロメ》。
期待高まる第2弾《エレクトラ》に向けて、音楽監督ジョナサン・ノットにお話を聞きました。
《サロメ》の振り返りにはじまり、《エレクトラ》の音楽的特徴、そしてオーケストラの色彩をコントロールするための“秘策”が明かされます。
ひとつひとつの対話に、ノットの深い知性とオープンな心、そして常に進化し続ける、という強い矜持を感じるインタビューです。
じっくりとご覧ください。

文:広瀬大介(音楽学・音楽評論)

―― 昨年11月の《サロメ》は圧倒的な演奏で、大変な反響を呼びました。川崎と東京、2度の演奏は細部で少しずつ違ったようですが、ご自身では出来映えをどう捉えていますか。

ジョナサン・ノット(以下JN):すばらしい質問をありがとう。まずなによりも、私は、音楽というのは「自発的な創造」であると信じています。また、それぞれの会場での演奏が独自の「空間」を持つように、そして聴衆の皆さんとの交流ができるように努めています。しかし、この2回の《サロメ》については、やや事情が異なりました。演奏会形式でのオペラの魅力は、公演のわずか数日前に全員が顔を合わせることにあります。ジャズの即興演奏のように、創造的なプロセスがとても速く進行するのです。

《サロメ》リハーサル風景から、歌手陣と話すノット。現場ではユーモアを交えつつ、時に真剣な表情も。

JN:私は伴奏が好きですし、東響は非常に才能ゆたかな伴奏者です。ほとんどの歌手は、自分たちがサポートされていること、オーケストラの楽団員が自分たちと一緒に呼吸し、音楽とともに流れてくれることを、とても心地よいと感じています。私は歌手に対して畏敬の念を持っています。自分の身体を使って音楽を創り出すということは、大変ではありますが素晴らしいことです。ただ危険なのは、オーケストラが伴奏だけに集中してしまうと、歌手がすべてのエネルギーをみずからで作り出さなければならなくなります。時には、よきガイドとして、"船を操舵する"ことが最善となることもあるのです。というわけで、サントリーホールでの演奏は、私が「コントロール」することにしました。もちろん、繊細に耳を傾けながら、歌い手たちが心地良く乗ることのできる波になろうと試みつつ。

《サロメ》公演から。主役のサロメを歌ったアスミク・グリゴリアンを筆頭に、
オーケストラやサー・トーマス・アレンの巧みな演出も総じて高い評価を受けた © N.IKEGAMI

―― 《サロメ》は、シュトラウスがそれまでの交響詩で培ったオーケストラの表現力に、歌曲で培った歌手の表現力を組み合わせて出来上がった作品と言われます。《エレクトラ》にもそのような側面を感じることはありますか?シュトラウスがこの作品で成し遂げた音楽的成果は何なのでしょう。

JN:この定義はおもしろいですね。《エレクトラ》という作品は、シュトラウスがマーラーの『交響曲第8番』のように、「歌われる交響詩」を作ろうとした結果、その境界線を限界まで押し広げたものだと考えています。歌は決して酷なものではないと思いますが、シュトラウスは音楽的、和声的、エネルギー的、音響的、オーケストラ的に、ドラマが持つ残酷さを限界まで拡げたのです。そして歌手は、その止めようのない”ドラマ”と戦うことを強いられるのです。

―― 《エレクトラ》はヴァイオリン・ヴィオラが3群、チェロは2群に分けられ、しかも第1ヴィオラは第4ヴァイオリンへの持ち替えを要求されます。管楽器でもヘッケルフォーンなどの特殊楽器を要する大編成です。この特別編成オーケストラをコントロールするための、「秘策」のようなものはあるのでしょうか。

JN:この質問には指揮者として答えますが、オーケストラの色彩を適切に表現するためには、つねに正しい「空間」を見つける必要があります。オーケストラの色彩は、どの楽器が演奏するかによって決まる部分もありますが、和声の密度を変えることによってもコントロールできます。《エレクトラ》には多調の音楽が多く含まれますが、複雑な和音にはそれぞれ異なる緊張感があります。そこで指揮者は、和音中の不協和音や、より調性的に響く音を演奏する楽器のバランスを変えるのです。低音楽器や分割された低弦によって、シュトラウスが選んだ暗い色を引き出すだけでなく、音楽を呼吸させ、伸縮させて、使われている楽器の大きな音のかたまりが、あたかも海のように、絶えず流れるようにするのです。

第1ヴィオラは第4ヴァイオリンへの持ち替えを要求される。
例)エレクトラとクリソテミスが自由の身になったことを喜ぶ場面

―― 《サロメ》《エレクトラ》ともに、今回キャスティングされた歌手は、いずれもその役を適切に歌うことのできる理想的な配役だと思います。ただ演奏の現場で、歌手の表現と自分の音楽的解釈が衝突することもあるでしょう。そんな時、マエストロはどのようにしてそれを解決するのでしょうか。

JN:私は勉強に勉強を重ね、そして腕を振る。一方で、歌手は呼吸と自分の声をコントロールしなければならない。それは常に「交換」なのです。音楽家は皆、ひとつひとつの音を「どのように」鳴らすかを練習しています。私の仕事は、音楽がどのように構築されたかを共有し、作曲家の意図について結論を提示すること、その音を「なぜ」そう鳴らすのかを提案することです。最終的に答えが見つかることはほとんどなく、提案のコレクションが増えていくだけなので、衝突ということではなく、ただ豊かになっていくだけだと思うのです。

―― マエストロはすでに、昨年1〜2月、ジュネーヴ歌劇場で《エレクトラ》を指揮されています。この時の演奏はどんな演奏でしたか?今回の東響との演奏は、この時の演奏を踏襲するものになるのでしょうか。

JN:ジュネーヴでの演出では、それまでの《エレクトラ》の経験とは異なる要求が私たち全員に課せられていました。そして、それらを真剣に考えることで、あらたな疑問の数々が生まれました。私にとってむしろ興味深いのは、東響との《エレクトラ》は、東響と《サロメ》を発見した後に続くということです。《サロメ》の経験と知識は、私にとって5回目の《エレクトラ》をどのように啓発してくれるのだろうか、ブルックナーの『交響曲第2番』を弾いた後に『交響曲第7番』を弾くようなものでしょう。ひとは一生進化し続けられる。自分が「知っている」と思っていたことを、すべて疑う勇気が常にある限りはね。

2022年1月25日~2月6日に開催されたジュネーヴ大劇場でのノット指揮《エレクトラ》トレーラー

―― 日本では《サロメ》の演奏機会は比較的多いですが、《エレクトラ》はそれほど多いわけではありません。日本の聴衆に、この作品ではぜひここを聴いてほしい、という部分があれば教えてください。

JN:《エレクトラ》を理解するためには、すこし前に作曲された交響詩《ドン・キホーテ》に注目するのがよいでしょう。シュトラウスのあの作品に隠された秘密は、信じられないほど重要で、感動的です。私はむしろ、偉大な劇作家としてのシュトラウスに魅了されています。作曲家としての大きな技量の裏には、かなりもろい部分があるのかもしれません。作曲家はなぜ曲を書くのでしょう?探し求めている答えは何なのか?《ドン・キホーテ》の音楽が訴えたいことは、私たち全員が、心の奥底で自分が進むべきと思う人生を歩むこと、そんなことへの挑戦なのだと感じました。優れた芸術作品には、同時にいくつもの潜在的な「読み」があり、聴き手の成長・変化に合わせて、その「読み」も成長していく。次の演奏は、常に前回の演奏によってさだめられていくのです。

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