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《マタイ受難曲》は、瞑想的、個人的な作品〜鈴木雅明《マタイ受難曲》講演会レポート(Text 加藤浩子)②

3月10日に開催した、友の会限定企画「鈴木雅明が語る《マタイ受難曲》」講座について、音楽評論家の加藤浩子さんにレポートしていただきました。
※このレポートは全2回中の第2回です。第1回はこちら

名アリアに込められた真意

 
 〈憐れみたまえ〉と並ぶ《マタイ》を代表する名アリアが、第49曲の〈愛ゆえに〉である。イエスが愛のために死ぬことを歌う内容だが、これは「愛」というより「罪」を歌うアリアなのだ。
 このアリアには、通奏低音のパートが欠けている。バッハは通奏低音のことを「すべての基礎、神の基礎」だとした。それを欠いた状態、つまり基礎を欠いた状態というのは、「罪」の状態に相当する。イエスが「愛」によって私たちの「罪」を償うと歌うこのアリアは、「愛」ではなく「罪」を歌っているアリアなのだ。
通奏低音を欠いたスタイルは「バセットヒェン」と呼ばれるが、バッハはこのスタイルを他の曲でも何度か使用しており、いずれも「罪」を歌った内容なのである。

No.49 Aria: Aus Liebe will mein Heiland sterben (Soprano)

コラールの扱いの巧みさ

 《マタイ受難曲》には多くのコラールが登場するが、最も有名なものはパウル・ゲルハルトの詞による「受難のコラール」こと〈おお、御頭は血と涙にまみれ〉(パウル・ゲルハルト詞)。血潮滴るキリストの頭を描写したテクストは、十字軍時代にキリストが被らされた荊を瞑想したことに遡る。このコラールは五回にわたって登場し、一回目(第15曲)は過越の食事の時に、二回目(第17曲)は信仰告白、三回目(第44曲)はイエスが沈黙し、全てを神に委ねるところ、四回目(第54曲)は十字架につけられたイエスが亡くなる直前、五回目(第62曲)はイエスが息を引き取った後でしめやかに歌われる。調性もそれぞれ、ト長調、変ホ長調、ニ長調、ニ短調、イ短調と移り変わるが、とくに四回目は最も高い調性、最後の五回目は最も低い調性になっていることに注目したい。第62曲のテクストには、「私が死を迎える時」をテーマにしたコラールの第9節が用いられており、自分自身の死を瞑想するコラールになっている。
 このように《マタイ》では、コラールを通じて聖書の教義を知るだけでなく、聖書の物語が自分自身の存在と近しいものだと確認できる。コラールを選択しているのはバッハ自身。バッハはコラールの歌詞をわざわざ赤字でスコアに書き込んでおり、バッハがコラールを重視していたことがわかる。


バッハ・コレギウム・ジャパンによる《マタイ受難曲》コラール集

瞑想的で個人的な《マタイ受難曲》

 《マタイ受難曲》は、《ヨハネ》と比べて遥かに瞑想的、個人的な想いにつながる作品である。イエス・キリストは、私たちの「罪」のために死んだ。その「罪」を再認識して、この世をどう生きるか、それを考える機会となっているのが《マタイ受難曲》という作品だ。
今、ウクライナで戦争が起こっている状態で《マタイ》を聴くことは、単に音楽を鑑賞するだけでなく、人間は罪深いと改めて認識することでもある。残念だし、疲れることでもあるけれど、あえてやらなければならないと思っている。(了)


2014年4月 バッハ・コレギウム・ジャパン《マタイ受難曲》公演 ©青柳聡

公演情報

キリスト教におけるイエスの受難の物語を超え、バッハの音楽は普遍的な人類の「罪」について深い省察を与えてくれる傑作だと言えます。
まさに、いまこそ多くの方にお聴きいただきたい作品です!


バッハ・コレギウム・ジャパン J.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV244
2022年4月17日(日) 16:00開演

指揮:鈴木 雅明
ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ、中江 早希
アルト:ベンノ・シャハトナー、青木 洋也
エヴァンゲリスト(福音史家):トマス・ホッブス
テノール:櫻田 亮
バス:加耒 徹、渡辺 祐介
合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン

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