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ミューザ川崎シンフォニーホール
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【寄稿】芥川也寸志没後30年―私たちは今、彼が遺した未来を生きている

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By 朝日新聞社 – 『アサヒグラフ』 1952年10月29日号, パブリック・ドメイン, Link

芥川也寸志の没後30年となる今年、彼が遺した唯一の番号つき交響曲である「交響曲第一番」が藤岡幸夫と東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団によって演奏される(8/6)のは、盛りだくさんのサマーミューザの中でも注目の公演の一つだ。そのコンサートの前に、芥川也寸志の生涯、また生前の多彩に過ぎるほどの活躍ぶりを少し振り返ってみよう。

芥川也寸志はご存知芥川龍之介の子息、三男として大正一四年(1925)に生を受けた。昭和二年(1927年)に父が自殺。彼自身は平成元年(1989年)の1月に64歳で亡くなっており、その生涯は完全に昭和に重なるものだった。彼の若き日の作品、たとえば「交響管絃楽のための音楽」、弦楽のためのトリプティークなどは今も頻繁に演奏されているからその早熟な才能は忘れられたことがないし、後年のたとえば映画のための音楽「黒い十人の女」「八甲田山」などは昨今再評価が進んでいる。また、彼がコンサート専用ホールを作るよう佐治敬三氏に働きかけ続けたことからサントリーホールが生まれたことなど、いま現在を生きる私たちに直接彼の影響は残っている。

テレビなどのメディアでも活躍し、その著作のいくつかはもはや古典の域。こう見てくれば「歴史上の人物」と評せる芥川だが、今回演奏される交響曲を作曲した時期にちょっと考えられない大胆な行動をしている。

それは1953年、29歳の年のことである。芥川は黛敏郎、團伊玖磨と若き作曲家三人で自作を披露する「3人の会」を結成し、1月に開かれた第一回演奏会で芥川は三楽章構成の「シンフォニア」を発表した。その9ヶ月後、彼は自作のスコアを携えて当時国交のなかったソヴィエト社会主義共和国連邦、ソ連に密入国する。ソ連(音楽)に憧れてソ連に駆けてった若き芥川也寸志は、幸いなことにひこうき雲と果てることなく、それどころかショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーら憧れ尊敬していた作曲家たちに知己を得て、自作がソ連で出版されることになる。その後中国を経由して帰国、その年末「シンフォニア」にスケルツォ楽章を追加し全面的に手を入れて、交響曲第一番として初演した。よくも生還してくれたものだ、でなければ今回演奏される交響曲第一番すら遺らなかった。「赤穂浪士」も、「八つ墓村」も我々が知るものとは違うなにかになっていただろう。

尊敬するプロコフィエフやショスタコーヴィチ、また師匠の伊福部昭の影響を感じさせる交響曲第一番を作曲したころの芥川也寸志は、冒険的な行動をしてしまう若さ、力があった。そしてその力は、彼の生涯を通じて発揮されていく。今回の「フェスタサマーミューザ」を見ても、彼に縁のある作品や演奏団体が登場している。ミューザに初来演する仙台フィルハーモニー管弦楽団の前身である「宮城フィルハーモニー管弦楽団」の音楽総監督を芥川也寸志は1983年から亡くなるまで務めた。今回演奏される交響曲第一番は、ミューザ川崎シンフォニーホールをフランチャイズとして活躍する東京交響楽団により初演された(指揮は上田仁)。こんな具合に期せずしてフェスティヴァルに縁のある音楽家たちが集まるあたりに、生前の芥川也寸志の活躍が遺したものの大きさがうかがえる。そう、生前の旺盛に過ぎたほどの活動によって彼が遺してくれたのは、日本のクラシック音楽の未来だった。私たちは今、彼が遺した未来を生きている。

そしてこれは本当に偶然が重なったのだろう。密入国して憧れのショスタコーヴィチに面会した、交響曲を書いたばかりの芥川也寸志は29歳だった。その年齢でショスタコーヴィチが作曲した作品は、先日ゲルギエフとPMFオーケストラが演奏した交響曲第四番。そしてその日本初演は1986年7月、芥川也寸志指揮する新交響楽団だった。奇縁、である。
(文・千葉さとし/音楽ライター)

【公演情報】
2019. 8.6 (火) 19:00開演
(18:00開場/18:20~18:40指揮者によるプレトーク)

指揮:藤岡幸夫(東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 首席客演指揮者)
チェロ:ジョヴァンニ・ソッリマ

シベリウス:「レンミンカイネン組曲」から 『レンミンカイネンの帰郷』
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
芥川也寸志:交響曲 第1番

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