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サマーミューザ特別寄稿 ジョナサン・ノット チャイコフスキーへのチャレンジ「これまで経験したことのない興奮を創り出す」(インタビュー・文:青澤隆明)

フェスタサマーミューザには例年のように、ジョナサン・ノットとホストオーケストラ東京交響楽団がまっさきに登場する。この夏の驚きはプログラムで、意外にもチャイコフスキーの交響曲に焦点を当てたことだ。音楽監督10年目にして、ついにチャイコフスキーへと舵を切ったのである。リヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』で圧巻の名演を聴かせた翌昼2023年5月15日にノットを訪ね、チャイコフスキーへの冒険に向かう、現在の熱き抱負をきいた。(インタビュー・文:青澤隆明)

取材中、いくつかのフレーズを歌って説明してくれたノット。
そのひとつひとつに、新たなチャイコフスキーの片鱗が感じられる。

「チャイコフスキーについて話をするうえで、まず言わなくていけないのは、私たちがこうしてお会いしているのはまだ探求の道半ばであるということ。今後のリサーチがどうなってくるのか、私にもまだあまりよくわかっていないのです」とジョナサン・ノットは開口一番に言った。「チャイコフスキーの交響曲第4番と第5番は私も指揮していますし、協奏曲はもちろん何度も、オペラは歌劇場で『エフゲニ・オネーギン』を幾度か振りました。交響曲第3番は、今回が私にとって初めての旅となります」。

フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2022東京交響楽団オープニングコンサートの様子©N.IKEGAMI

チャイコフスキーの交響曲からは距離を置いてきた、というノットにとっては、また新たな挑戦の始まりとなる。「振り返ってみれば、チャイコフスキーに関して、私はカラヤンのレコーディングを聴いて育ちました。聴き直してみると、私を納得させる演奏ではありません。また、とくに第5番や第6番について言えば、くり返し演奏され続け、いまや誰も真の意味で聴いてはいない危険性がある。もはや作品について考えることをせず、ただ長い間演奏してきたからというだけで採り上げるようなことは、私は避けたいのです」。

“フェスタ”というものが熱狂と祝祭の舞台だとしても、たんに激しく咆哮するチャイコフスキーではなく、綿密な細部の読みにもとづく構築を、聴き手はノットと東響の演奏に期待するだろう。

「チャイコフスキーにはたくさんのメロディーがあり、イデー・フィクス(固定楽想)があって、モティーフを反復し続けます。私にとって最大の問題は、チャイコフスキーの交響曲を聴くといつも、粗暴にすぎて、優美さや詩情が存分にはないと感じられることでした。私は音楽における粗暴さが好きではないし、そうしたものは音楽ではないと思う。チャイコフスキーには脆さがあるべきだ、と私はつねづね感じてきましたが、そういう演奏を聴いたことがありません。私たちが聴き馴れているのは、騒々しい金管とほとんど軍隊のような力でモティーフがくり返される演奏ばかりです。いっぽうで、チャイコフスキーのカンタービレ、それにオペラやバレエはすべてがただただ素晴らしく、美しい色彩に溢れています。かくして、彼の交響曲は私のための音楽か?それとも他の人たちのためのものなのか?という問題に直面する。それがいままで私がチャイコフスキーを採り上げてこなかった大きな理由です」。

そう語るノットも昨冬に還暦を迎え、ようやく機が熟してきたのだろう。ロシアの大家がいま、新しい興味と発見の焦点となったのである。とくに名曲とみなされてきた作品に取り組む際には、旧来のイメージを刷新するチャレンジの意味も必然的に帯びてくるはずだ。

「近年ベルリオーズの『幻想交響曲』に取り組んで、私は大きな驚きに打たれましたが、同じことがチャイコフスキーの第4番、第5番、第6番についても言えますね。東響とのブルックナー経験も含めて、初期作を知らずに最後の作品群をやることは不可能だと私は悟りました。チャイコフスキーの第1番、第2番、第3番を研究することなしに、第4番をみることはできない。初期作を調べていると、グリンカやムソルグスキーに当たらなくてはならなくなる。ロシア音楽の歴史がどのように彼らの作品を生み出し、なにがチャイコフスキーをあのようにさせているのかを理解しなくてはと考えるからです」。

そこに、ブルックナーやマーラー、リヒャルト・シュトラウス、ベートーヴェンやブラームスにおける近年の探求が自ずと重なってくる。個々の作品は西ヨーロッパ音楽の大きな鉱脈のなかにあるのだ。

「チャイコフスキーの初期交響曲を調べるうちに、いくつかのアイディアが私の頭に浮かびました。たとえば、第3番は5楽章構成です。この構成を“舞踊組曲”の形式と関連づける識者もいますが、それでは彼の交響曲がいくらか軽いものになる。私にはマーラーの第7番のことを思い出させます、“ナハトムジーク(夜の音楽)”というアイディアを。第2楽章アッラ・テデスカ(ドイツ風に)をどう演奏するかにかかってきますが、おそらく第1楽章と第5楽章、それから中間の3つの楽章には共通するものがあります。チャイコフスキーの第3楽章アンダンテは、マーラーの“夜の音楽Ⅱ”に近い……。もし意味のある構築と内容を結実させる想像力をつかめれば、全曲を通じたアーチを築けるでしょう。いまはジグゾーパズルのピースが多々ありますが、7月までにひとつに組み上げるところまで辿り着かなくては」。そう言って、ノットは愉快そうに笑う。

スコアを見ながら熱心に話すノット。取材中もさまざまなアイディアを“発見”していた。

「第3番と第4番はいずれも長大な交響曲ですが、あまり演奏されない第3番だけでなく、非常によく知られた第4番においても新たなことを見出したい。第3番を聴いた後に、第4番のイデー・フィクスを扱えば、両作の構造を通じてなにかが見出されることにもなるでしょう。第4番に関しては絶えざる反復を解決しなくてはならないし、それは構造を通して成さなくてはいけないと私は直観します。チャイコフスキーのメロディーはそれ自体がユニットで、ドイツ音楽のように3つや4つの音からなにかを創り上げるのとは違う。メロディー自体が完全なもので、それゆえ展開するのがいっそう難しい。そしてメロディーであるならば、最後の音をフォルティッシモで演奏するのは不自然です。実際あるべきようにフレージングされないために、本来の詩情や想像力が損われてしまうのだと思います」。

チャイコフスキーがフィナーレやアグレッシヴな場面で大音量を用いると、構築や書法の工夫をぶち壊しにして、全体主義的な熱狂のうちにすべてを投げ込んでしまうように思える。それは、知的な聴衆に限らず、広いロシアの万民を呑み込むための方便であり、チャイコフスキーにとっての創作上の負荷であったのではなかろうか。

「フィナーレについてそう考えるのは正しいと思います。たしかに、そこまでに得てきたものから逸れてしまうきらいがある。しかし、善き者はみな知性をもっています。私はチャイコフスキーを譜面上でみるように、分厚く重たい響きで鳴らしたくはない。編成上はもちろん、ヴァイオリンを左右に分けて配置するつもりです。チャイコフスキーでは全弦楽器のユニゾンが多用されますが、対向配置を採ることで、響きの詩性がより抽き出せることでしょう」。

チャイコフスキー固有の詩情をいかに描出しつつ、全体を有機的に構築するかが鍵となる。だからこそ、チャイコフスキーの作品がいまジョナサン・ノットを必要としていると言えるのだろう。

「正直に話しますけれど(笑)、第4番の冒頭主題からして、誰もきちんとフレージングしてはいないと私は感じてきました。問題は演奏の方法にあり、作品の一面だけを強調してきたのではないか。だから、つねづね頭のどこかで、おそらくチャイコフスキーには私のような誰かがいっしょにやってくる必要があると思ってはいました。でもまだ解決策を見出せてはいません。チャイコフスキーに見せかけの壮麗さを与えるのはとても容易ですが、それではなんら心に触れるものにならない。すべてのファサード、堂々とした建造物の正面は、たんなる壁にすぎないのです。私たちは壁をもたない音楽をしなくては。音楽は私たちを感動させるものでなくてはなりません。なぜなら、それは“私たち”のことであるかもしれず、たんに“彼ら”に起こった出来事ではないのだから。“フェスタ”の意義はこれまで経験したことのない興奮を創り出すこと。この7月のチャレンジが、いまから実に楽しみでなりません」。


ノット監督から、「お待ちどうサマー♪」

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